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WORDROBE 創立記念日は、花まつり
お釈迦様のお誕生日である、
『花まつり』を創立記念日に選んだのは、お釈迦様がお生まれになったときに、
ルンビニの園の花々が一斉に花ひらき、
甘露(香湯)の雨が降ったという寓話の美しさ、『 天上天下唯我独尊 ~人は誰もが、
かけがえのない命を生きている 』
という言葉にも、価値観に通じる想いがあり、何よりも、WORDROBEに関わってくださる
それぞれの方々のもとへ、人生の変化に繋がる気づきや、
きっかけを運ぶ、白象のような存在に
なりたいと願ったからです。まだまだ未熟者ですが、
一歩を踏み出したときの想いは
変わることなく、歩んでいます。新しい一年も、
どうぞ宜しくお願いいたします✨株式会社WORDROBE 代表取締役
印象美プロデューサー小西 敦子 -
コミュニケーションの妙、その在り方
コミュニケーションの妙とは、
それは接する相手の、『自己愛』を促す関わり方だと私は思う。人の心の中には3つの引き出しがある。
…と、考えてみる。一段目は、
優しさ、思いやり、誠実、素直、勇気など、
美徳が納められた〝白い引き出し〟二段目は、
打算、かけひき、強引、消極など、
大人ならば、時には必要な〝グレーの引き出し〟三段目は、
攻撃、嫉妬、利己、憤怒、狡猾(こうかつ)、吝嗇(りんしょく)など、
できれば封印しておきたいものが納められた、
〝黒い引き出し〟人間であれば誰でも、量や質は違えども
三段すべて持っている。そして〝白〟と〝黒〟の引き出しを
開けるのは、多くの場合、日頃、関わっている人々の波動、言葉、
行動など、今いる環境です。〝白い引き出し〟を開けてくれる人と
意図的に接していれば、
安定的に優しく誠実な自分でいられるし、常日頃、自分の長所や強みに
フォーカスできれば恒常的に自己愛に満たされる。〝黒い引き出し〟ばかりを開ける人と
無理して接していれば、心が疲弊、消耗し、時には深い自己嫌悪に陥る羽目になる。今日、ご縁あって久々にご一緒した方々は、
いつも〝白い引き出し〟を開けてくださる、
素敵な方々でした。四時間にわたる愉しい食事のあとには、
清々しいほど素直に自分自身のことが
好きになっていた。自然な傾聴や、温かい承認、感謝の心、
興味関心を持つ姿勢。接する相手のよい資質を、
引き出し、気づかせ、自己愛を促す関わりかたは、
最高のコミュニケーションだと私は思う。帰り際、車を運転しながら、
ふと思い出した聖書の言葉、【あなたの価値】
わたし(神)の目には、
あなたは高価で尊い。
わたし(神は)あなたを愛している。
(聖書・イザヤ書43:4)スッと、心にしみいり、
得も言われぬ感謝の気持ちに包まれた。そう思わせてくださる人との出会いも
天からの贈り物。そして、お相手の方が
そう感じてくださる自分でありたい。そんなことに思いを巡らす、新年度のはじまり。世界的デザイナー・ジバンシィと彼の永遠のミューズ・オードリーヘップバーン -
SNSで平和的に嫌われるためのコツ
『 SNSをどんな目的で活用しているのですか?』
先日、訊かれた、いい質問に対して、『 平和的に嫌われるためです 』と、答えました。もちろん、情報発信や、自分自身の表現力トレーニングなど、様々な目的はあるけれど、常に念頭において意識しているのは、『 皆んなから好かれたい 』という感情に色目を使わないということ。皆んなから好かれるというのは、一見、良さげに見えつつ、実のところ、トラブルを引きおこす原因です。『皆んなから好かれたい』と思うと、どこかを曖昧にしたり、なにかを取り繕わねばならなくなる。すると、実際に会ってみて、接してみて、話してみて、知ってみて、受講してみて、『こんなはずじゃなかった』を引き出し、期待に応えられない状態をつくりだす可能性が高くなる。結果、ネガティブ・キャンペーンや、クレームや、終わりなき問答など、お互いに、時間と経済の無駄や、感情の疲弊をつくってしまうだろうし、受講者が集まったときの世界観が濁ってしまう。だから私は、『 平和的に嫌われる 』ために、思考の特徴的なところや、やや偏っているところ、でも、それを無くしてしまったら、私ではなくなる、信念、信条、価値観を、積極的にだしていく。ここで重要なのは『 批判しないこと 』『批判精神』というのは勇気と自信であり、『正しく嫌われる方法』の一つでもある。一方で、私自身の価値基準である、『調和と和解のエレガンス』に反する行動。批判しないで、嫌われた場合、そのお相手の判断はきっと正しいし、私はその判断も尊重したい。そして、そんな私に対して、少しでも共感を持ってくださり、『 関わってあげてもいい。』と思ってくださるかたとは、きっと、いい時間を過ごせて、お互いの人生に影響を与えあえると信じています。つまり『平和的に嫌われること』は、純度の高い世界観を共有できる人たちと、時間も感情も無駄のない、生産性、または精神性の高い関わりを持てる可能性が高まるということ。そして『 SNSでファンをつくる 』という発想は、何だかおこがましいという、一歩引いた思考のひとたちが、WORDROBEの講座を、ご受講くださっているようにも思います。 -
銀色夏生『片思い』に想う
人はがんばっていると、出会う人が変わります。
今まで出会ったことのないすごい人や、
心が震えるほど憧れる人に出会う機会が増える。
すると、到底追いつけない格差に打ちひしがれて、これまで自分が人生を雑に扱ってきた後悔だとか、残りの人生の短さへの憂いだとか、能力の低さだとか、弱いところを責められる。
まさに『片思い』の状態。対等になって『両思い』になりたいのに、
現実は遠すぎて、心が疲弊する。
でもそれは、自分をよく知る機会であり、
コンプレックスを克服し、
成長させるための試練なのだと思うと、
少しだけ、心穏やかになるのではないだろうか。
がんばっていなければ『片思い』もしなくて済む。
でも、ネガティブな感情も、人生の味わいであり、
深みなのだと思うと、涙が出るほどの苦しさを知らない人生は、味気なくてつまらないとも思う。
『片思い』のつらさに出会うときは、
新しいステージに到着した証なのでしょう。~~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~『 片思い 』 銀色夏生
片思いってどうして存在するのだろう、
誰かを本当に心から好きになったら
その思いはかなうんじゃないかなと私は思ってたけど、
今は片思いにも意味があるんだと思う。成就しない恋心は、
つきあうという実践を伴わなくていい
脱コンプレックスのための自己成長の機会かもしれない。好きになった理由が
自分のコンプレックスからだと、
その恋はたとえ成就してもつらいものになるだろう。神様の配慮かも。
私はいつも、
自分の弱いところにくるなあ、
弱いところを責められるなあと思っていたけど、
弱いからくるんだ。弱さがなくなるまで、
いつまでもくるんだ。
自分の弱さを知って、その部分を成長させろってことだ。いちばん弱いところに来るものが
いちばん大きく、
いちばん手強い。片思いは、自分を知る機会だと思って
乗り越えましょう。自分のコンプレックスを乗り越えた時、
片思いも消えてるはず。 -
傾聴に囚われている若者たちへ
「この前のアドバイスのおかげで、
お客様とラクに話せるようになりました」先日、いつもの美容室で、
20代の男性スタイリストさんからそう言われました。「は?わたし、何言ったっけ??」
ああ、そうそう、話をする中で、
前回の会話が蘇ってきた。彼のお悩みは、
「初対面のお客さんと、
いったい何を話せばいいのかわからない」
というようなこと。私はその時、
「相手の話を聴かなきゃ!と気負わず、
自分の話をすればいいんじゃないの?」
と言ったはず。なぜなら私自身、
「休日はなにしているんですか?」
「スキーとかスノボとか、なさるんですか?」
「最近、映画観ましたか?」
・・・というようなことを、初対面の相手からあれこれ訊かれるのが
とても苦手だから。20代が、40代の休日の過ごし方に
本気で興味があるとは思いがたいし、なによりも私自身、
人様に語るほどの休日の過ごし方などしていないし、
スキーもスノボもしないし、
映画も最近見てないし、なんだか語るほどのものがないゆえに、
「別に」「しないけど」「忙しくて」
と、マイナスな回答する自分が残念すぎて
自己嫌悪になる。。だから、
「先日僕は、〇〇っていう映画観て感動したんですが、
最近、映画ご覧になりましたか?」って、まず自己開示してから質問してくれたら、
「 私は最近、観てないんだけど、〇〇ってどんな映画?」
と、プラスで返せるので気持ちがラクになるよ。というようなことを言ったはず。
初対面の相手には
まずは自分から自己開示する。自分のことを色々話すうちに
共感ポイントを見つけて、
相手も自分を開示してくれる。そんな何気ない会話を覚えていてくれて、
実践してくれて、
成果を報告してくれたことが、
なんだか嬉しかった。今日の彼は饒舌で、
高校時代に演劇部に所属していて、
仲代達也さんから指導を受けた話や、最近、仲間と悩んだことなど
20代らしい初々しさで、
楽しげに話してくれて
それがとても新鮮で、
聴いていて心が和んだ。無理して相手の話を聴こうとしないで、
まずは自分のことを話してみたら?自分は何を考え、何を悩み、
何に夢中になっているのか?まず自分に質問してから、
相手に質問する。そんな日々の習慣の繰り返しが、
コミュニケーション上手になるための、
素朴な始まりなのではないかな。
と、私は思います。 -
人生の〝お花見日和〟は必ず巡りくる
日々の雑感。
個人的な回想。私の母は80才で、8人兄弟の3番目です。昨日は、入院した1番目の93才の姉を
見舞うため、8番目の72才の弟と一緒に、
お見舞いに行きたいとのことで、
私は運転手を任命されました。姉も、妹も、いつしか94歳で旅立った、
お婆ちゃんそっくりになり、
弟は、お爺ちゃんそっくりになってきた。DNAは、人生の後半に特徴を表すことを
微笑ましく眺めていると、1番目の姉の次男70才の甥がやってきて、
流れのなかで婚約者を紹介されました。推定50代半ばの〝チハルさん〟
とても優しく艶っぽい綺麗なかたです。思い起こせば、
その甥の1回目の結婚式で(苦笑)、
5才の私は花嫁のお手ひきしたのですが、
今、当時の写真をみても花嫁はとても綺麗。人はいくつになっても、
基本的な外見の好みは変わらないことと(笑)、人はいくつになっても、
求めていればロマンスが訪れるということを、
仲睦まじい恋人たちの姿に確信しました。かえりがけ、年老いた姉と弟が兼六園で
水入らずのお花見をするとのことで、
入園口で、お見送りしましたが、〝姉ちゃん〟〝マサオ〟と呼びあい、
朗らかな笑顔で歩く二人の後ろ姿には、
昨年、伴侶をなくした姉と、
大病を患った弟の、
労りながら、お互いを慈しみ、
人生を懐かしむ、穏やかな愛が、
木漏れ日のように静かに溢れていました。人生には色々ドラマはあるけれど、
こんなお花見日和が必ず巡ってくることを、
いつも信じて生きていたい。そう感じる1日でした。
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椿にみる、孤独な美しさ
足元に、椿の花1輪。
石畳の階段に身を隠すように、
ひっそり佇む、いじらしさに、
ふと気づく。花は、集まっても美しく、孤独でも美しい。固いつぼみも、朽ち果てゆく姿も、
それぞれの凛々しさがある。 -
贅沢の極~金沢の観桜
金沢市 犀星のみち今日はまさに満開のさくら咲く新年度。
市街地の中心を流れる犀川の周辺も
平日の日中は人影もまばら。兼六園は観光客で賑わっていますが、
私はこの場所の観桜が一番好き。これを贅沢と呼ばずして、
なんと表現しよう。一人ぼんやりと、
持参したお菓子とお茶でお花見の午後。 -
さくらの流し舟 ~ 旧大聖寺川
旧大聖寺川の流し舟。
素朴な風景をのどかに愉しむ昼下がり。
船頭さんが地域に伝わる民謡を一節。 -
百の頂(いただき)があれば、百の喜びあり
■百の頂(いただき)があれば、百の喜びあり■
この人生にも通じる名言は、
『日本百名山』の著者で、カメラマンで、
俳人でもある、深田久弥氏のことば。初めて訪れた山の文化館のエントランスには
樹齢650年の巨大な銀杏の大木が
そびえていました。ここは山長織物会社の跡地を利用していて、
明治~昭和にかけて栄華を誇った、
繊維業の輝かしい歴史と、
深田久弥氏の資料館の両面で、
興味を充たせる場所。大聖寺川が近いこともあり、川が増水しても、
蔵の高価な羽二重に被害が及ばないように、
驚くほど堅牢で緻密な蔵の扉が
設置されていて、そのなかには今、
深田久弥の貴重な資料が、
丁寧に保管展示されていました。山荘をイメージした喫茶店で
コーヒーをいただき、