• 日本茶が教える『やさしい女性』

    疲れている時や、落ちこんでいる時、
    そっと差し出されたおいしいお茶が、
    どんな励ましの言葉よりも
    安心感を与えてくれた。
    ・・・・そんな経験ありませんか?

    私は日本茶が好きで、お世話になった人に
    新茶を贈ることが多いのですが、
    男性へ日本茶を贈るときに、
    よくメッセージに添えるのが、この言葉。

    『やさしい女性に淹れてもらってくださいね』

    その言葉には3つの意味がある。

    ①お茶は女性に淹れてもらったほうが美味しい
    ②やさしい女性はお茶を丁寧に淹れてくれる
    ③やさしい女性はお茶の時間を幸せにしてくれる

    では、やさしい女性って、どんな人だろう。

    私はずいぶん前、日本茶好きが高じて
    『日本茶アドバイザー』の資格をとりました。

    その時に驚いたのは、日本茶の品質を評価する際、
    長所ではなく、欠点が重要であるということ。

    そう、日本茶の品質評価は減点方式なのです。

    今は検査基準が変わったかもしれないが、
    私が学んだころは、

    化学検査と官能検査という評価方法があり、
    化学検査はその名の通り、化学的な評価。
    官能検査は人間の目、鼻、舌を使って、
    茶の外観、香気、水色、滋味を確認する。

    減点方式ゆえに
    『葉いたみ臭』 『かぶせ味』
    といった専門用語も、

    欠点を指摘する言葉が圧倒的に多い。

    日本人は昔から、長所を数えるのではなく、
    短所を認める民族なのだと、

    とても腑に落ちた記憶がある。

    そうして選別され、家庭に届く日本茶。

    お茶は古くから、
    人と人とのコミュニケーションに

    欠かせない嗜好品。

    『言葉に出さずとも心が通じる』

    それは日本文化の中で育まれてきた

    美徳であり、幸せな生活習慣です。

    言葉で伝えるコミュニケーションが

    必要とされる現代社会だからこそ、
    茶の葉がお湯のなかでノビをして、
    ふわり、ふわりと開いていくように、
    お茶のじかんくらいは、
    穏やかな気分を愉しみたいもの。

    つまり、

    ことばではないコミュニケーションで
    ひとの心に寄り添い、
    丁寧にお茶を淹れられる女性が
    わたしのイメージする『やさしい女性』

    普段おしゃべりな私も、新茶の季節くらいは
    『やさしい女性になったつもり』で
    お茶を淹れようと思う。

  • 無意識の色気こそ本物


    「女性の色気」というのは、
    本人が「色気」を意識した瞬間に
    消えてしまうものだと私は思っている。

    最近なにかと話題の壇蜜さんも、
    キレイだとは思うけど、
    セクシーだとは思わない。

    本当にセクシーなのは、
    コントロールの及ばない
    「無意識の色気」なのではないか。

    2000年に公開された、
    モニカ・ベルッチ主演
    イタリア映画 『マレーナ』

    この作品は
    名匠・ジュゼッペ・トルナトーレ監督による、
    多感な少年の一途な恋の物語。
    モニカ・ベルッチの奇跡的な美しさと、
    悲しいほどのセクシーさが鮮烈な名作です。

    時代は1940年代、
    第二次世界大戦中のシチリアが舞台で、
    12才の少年・レナートが、
    年上の美女『マレーナ』に恋をしながらも、
    一歩踏み出す勇気も、声をかける資格もない、
    そんなもどかしさと、せつなさが伝わる恋物語。

    老いも若きも男たちは皆、
    本能的にマレーナに見とれ、

    女たちは皆、狂おしい嫉妬からくる、
    軽蔑と非難の視線でマレーナを眺め続けます。

    本人すら懐柔できないほどの
    「色気」というのは罪だ。

    でも、それを神から与えられた女性って、
    ほんの一握りの選ばれし人。

    私がこれまでの人生で出会った
    リアル・マレーナは

    京都の伝説の芸妓・佳つ乃さん。

    当時20代前半で、
    すでに売れっ子の有名人だった。

    19歳だった私は、幸運にも
    金沢で行われたイベントでご一緒したのだ。

    昼間の着物姿も美しかったけれど、
    主催者に連れて行ってもらった
    夜の食事会の私服姿が忘れられない。

    髪を後ろにスッと束ね、
    デコルテの開いたシンプルな黒いワンピース。

    陶器のような真っ白な肌と、細い首、
    緩やかななで肩、豊かな胸元、
    素顔に近い薄化粧なのに、
    まるで季節外れの白い花が
    月影に一輪そっと咲いたような、
    清楚でありつつ妖艶な美しさだった。

    お姐さん達に心ない言葉で苛められていたが、
    そこにいた人は皆、老若男女問わず、
    完全に佳つ乃さんの虜になっていた。

    本物の色気というのは
    自分ではコントロールできない、
    無意識に発する特別なもの。

    模造の色気が幾重にも積まれた中、
    燦然と輝くのは天然の色気。

    天然が磨かれて、本物の珠玉になる

    19歳の私は本能的にそう感じた。

    壇蜜さんは女性に人気があるという。

    それは私たちと同じ、
    無意識の色気に憧れ、妬み、悩み、
    努力する「普通の女の、いじらしさ」
    に対する共感からではないだろうか。

  • 電話は声の玄関



    電話は「声の玄関」である。
    とくに、客とお店、
    客と会社・・・というシチュエーションの場合、

    第一声である
    「お電話ありがとうございます、
       ○○でございます」
    は、会社や店のイメージを決定づける。

    予約の電話をする
    注文の電話をする
    問い合わせの電話をする

    かけるほうは、
    相手宅に訪問するように少し緊張する。

    そして受けるほうは、
    「ようこそ!」という気持ちであるはず。

    この「ようこそ!」の気持ちが、
    しっかりと伝われば、
    相手の心に「信頼という橋」が架かる。

    先日、あるお料理屋さんに行きました。

    緑に包まれた山奥の老舗で
    都会から遊びにくる友人に
    自然の中、のんびりと食事を
    楽しんでもらいたくてそのお店を選んだのです。

    予約の電話、
    電話口に出てくれたのは
    声の印象から、40~50代の女性。

    「お電話ありがとうございます、
      ○○でございます」

    しっとりと優しく落ち着いた声。
    苔むした美しいお庭の佇まいをも連想する声。

    それはお店のイメージそのもので、
    それだけで安心してしまいました。

    お庭がきれいに見える部屋
    囲炉裏で魚を焼いてもらえるメニュー
    旅行中なのでお腹がもたれない料理内容
    予算はこのくらい

    訊きたいことを一方的に質問する私の話を
    親身に聴いてくださり、
    やさしく、わかりやすく回答してくれた

    どうしてそう感じたかというと、

    ① 相手の話を最後まで聴く

    ② 誤解を与えない話し方
    この予算のお料理メニューは(主語)
    こういう内容です(回答)


    私は予約の電話の際は必ず予約担当者の名前を伺うのですが、
    このかたに名前を伺うのは失礼だな。と思い、

    あえて伺いませんでした。

    最後のひとこと、
    「では、お越しをおまちしております」

    電話だから、姿は見えないけど、
    声だけで深々とお礼する姿が見える。

    温かく静かな五月雨のように落ち着いた声だった。

    たった2分程度の電話の会話で
    客との信頼関係を成立させるスタッフは
    会社やお店の財産です。

    本物の玄関で
    お客様をお迎えする前から、
    「声の玄関」でのおもてなしは始まっている。

    電話をとるとき、
    一人一人がそう意識することが何より大切なのだと思う。







  • 恥ずかしさの価値観


    相手を理解するというのは、とても奥深い。

    結婚相手に望むこと。
    その筆頭に挙げられるのが「価値観の共感」だろう。

    離婚理由に「価値観の違い」が多いことでも、

    それは立証される。

    価値観というと、
    おいしいと思うもの、
    美しいと感じるもの、
    大切にしたいと願うもの、
    楽しいと興ずるもの、

    ・・・といった、ポジティブな価値観を
    重視する場合が多いけれど、

    現実の生活では、
    恥ずかしいと思うこと、
    みっともないと感じること、
    生理的に嫌悪すること、

    ・・・・といった、
    ネガティブの価値観の一致のほうが、

    ずっと大切な場合が多い。

    なぜならば、楽しいことは
    一人でしても楽しいし、

    美味しいものは、ほかの人とも
    食べることができる

    でも、恥ずかしいと思うことを
    身内である家族にされたり、

    生理的に嫌悪する行為を
    正当化する発言を聞くのは、
    かなりつらい。

    消防車のサイレン
    「火事現場を見に行こう」と言われて、
    好奇心を掻き立てられる人もいれば、
    眉をひそめて嫌悪する人もいる。

    食事に行った先で、
    一人前がかなり大盛りで食べきれない。

    食べ物を残すのは恥ずかしいから
    一人前をシェアしよう。という人もいる。

    二人で一人前しか註文しないのは
    お店の人に悪いから、
    残す前提であっても、人数分注文しよう。
    という人もいる。

    どちらも悪くない。
    恥ずかしさの価値観が遠いだけ。

    これは結婚に限ってのことではない。

    人間同士、お互いが歩み寄るためには
    相手の「恥の価値観」に共感することが大切。

    到底、同感はできなくても、共感ならできるはず。







  • 一生かけて、自分の個性を創る

    今の若者たちは
    「生きている実感」が薄いようだ。  
    と、テレビで言っていました。

    「生きている実感」ってなんだろう?

    仕事で進めてきた計画が達成したとき。

    好きな人と結婚したとき。
    子供の成長を目の当たりにしたとき。

    いろんなシーンでひとは、
    「生きててよかった! しあわせだ!」と思う。

    でも現実は、
    「めでたし、めでたし」では終わらない。

    有難いと思い、感謝し、
    ひたすら平穏に落ち着いていくうちに、
    勇気は失う、気力は減る、忍耐は甘くなる、
    体は弱くなる、ものが億劫になる、
    と、喪失ばかりである。

    これは幸田露伴の娘で、随筆家の
    幸田文の「しあわせぼけ」の一節。

    「しあわせぼけ」って、優しい響きだけど
    実は残酷で、上手に付き合うのが難しい。

    私もこれまでに、この「しあわせぼけ」の中で、
    「生きている実感」を何度か失った。

    しあわせなはずなのに、毎日焦っていて、
    心が消耗する感じ。

    本物の「生きている実感」というのは、
    「しあわせぼけ」から一歩踏み出し、
    自分の無知、無力、無教養と向き合い、
    もがいているときに
    感じるものではないかと思う。

    そして、考える筋肉が鍛えられるなかで、
    少しずつ創られていくのが、
    唯一無二の、自分の個性なのだろう。

    人は一生かけて、自分の個性を創る。

    「しあわせ」を感じる瞬間は素晴らしいけど、

    「しあわせぼけ」している時間はもったいない。

  • 【家訓】 客の流儀

    普段は反面教師のシンボルともいえる
    実父だが、たまに、とても良いことを言う。

    子供のころから、よく言われていたのが

    「お金を払うからといって、自分を客と思うな!」

    この言葉には二つの意味がある。

    一つ目は、

    食事をさせてもらう。
    商品を買わせてもらう。
    髪を切ってもらう。
    美しいものを見せてもらう。

    自分にできないことを
    相手にしてもらっている。
    ・・・ということを忘れるな。という意味。

    二つ目は、

    今、この瞬間、自分は客であっても、
    相手の人は、未来の自分や、家族、
    親戚にとって大切なお客様かもしれない。

    そのことを肝に銘じて、
    恥ずかしくない行動をしろ。
    ・・・という意味。

    子供の頃はよくわからなかったが、
    この年になると、この言葉の意味が
    ものすごく理解できる。

    とくに二つ目の意味は、
    ご縁という、点と点が繋がって、
    大きな輪になり始めた頃から、
    痛切に感じるようになった。

    コーヒーショップの店員さんも、
    駐車場の整備員さんも、
    スーパーのレジ担当のひとも、
    バスの運転手さんも、

    どこかで繋がっていて、
    大切なお客様の、大事な人かもしれない。

    そう思うと、
    大事にしなくてもいい人なんていないし、
    気を遣わなくてもいい人なんていない。

    肩身を狭くして生きろということではない。

    自分がお客様を迎える立場でも、
    自分が迎えられる立場でも、
    同じ自分でいることが大切。。

    それを自然体で出来る人こそが、
    本物の接客のプロなのだと、私は思う。