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無財の七施
私は『印象美』という概念を、日々ことばを重ねて伝えているけれどを、もはやこの一言で説明できてしまうことに衝撃を受けました。『無財の七施』有名な言葉なので、
これまでにも聞いていたのかもしれないけれど
心に届いたのはこれが初めて。人と、言葉は、遅すぎず、早すぎず
絶妙なタイミングで出会うものだと思う。「施」は文字通り、施しを行うこと。
いわゆる、お布施(ふせ)。仏教における施しには3種類あり、
1.財物をほどこす
2.精神的・心をほどこす
3.法施財物とは文字通り、物質になります。
お金であったり、物であったりします。これまで、施すとはその意味を指すと
思っていましたが、
精神や心も施すことになるのですね。無財の七施とは、
1.眼施(がんせ)
・・・やさしいまなざし。2.和顔施(わげんせ)
・・・にこやかな顔。 微笑んだやさしい顔つき。3.愛語施(あいごせ)
・・・やさしく、思いやりのある言葉使い。4.身施(しんせ)
・・・自分の体を使って他人のために動くこと。奉仕。5.心施(しんせ)
・・・他人のために気配りをしたり、喜びを共有する(随喜)こと。6.床座施(しょうざせ)
・・・席を譲ること。または自分の地位ですら後進や相手に譲ってしまう心。
7.房舎施(ぼうしゃせ)・・・雨風をしのげる施しをすること。施す=恵む ではなく、『よろこんでもらうこと』
今日も小さな施しを実践できる一日になりますように。
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人間は選んだもので創られる
最近つくづく思う。
人間の見た目も、交遊関係も、知識も、
細胞も、未来も、日々の選択の繰り返しで
構築されている。今日、リムジンバスの出発時間まで50分あった。
まずは羽田空港内で靴を磨いてもらった。
プロに磨かれたネイビーのエナメルパンプス
気持ちが上向くほどピカピカ次はカレー屋さん
気持ちとしては、
チキンカレー+サフランライスだけど、昨日からの野菜不足を考えて、
野菜カレー+16雑穀米今日、どこへ行くかを選択し、
誰に会い、何を見て、何を食べる
どんな話をして、
その中から何を自分の生活に反映させるか。日々、選択の繰り返し。
今着ている服、靴、髪型、
メイク、爪の長さ、話し方、
職業、体型、肌質、
バッグに入っているもの全て自分が選択を繰り返して得たものたち。
今日、何を選択するのか。
どんな時間の使い方をするか。未来の自分は、
今日の自分の選択に
創られてゆく。Facebook投稿していて
バスに乗り遅れたのもまた、
自分の選択によるものなのですが(;´д`) -
小さな敬意・些細な丁寧
今日は丑の日。鰻のかば焼きを買い求めました。
その足で、自然食のお店に行き、
いつもの五分づきの玄米ではなく、
鰻に合うように白米に精米してもらう。丁寧に焼いてもらった鰻だと思うと、
精米したての品質の高いお米を用意したくなる。朝採れの枝豆だと思うと、
贅沢に、茹で塩から珠洲の天然塩を使おうと思う。木なり完熟のトマトなら
へたをとって、塩を浸透させてラップして
最高においしい冷やしトマトにしてあげたい。人間同士もきっと同じだろう。
お店の雰囲気に合わせて
装いを選ぶお客様には (敬意)
きっと心地よい接客がもたらされる (丁寧)新築住宅に家具を運ぶ家具やさんの
靴下が冴え冴えと真っ白だったら (丁寧)
その人は名前で覚えられて、
施主に感謝されるだろう (敬意)丁寧には、敬意が返ってくる。
敬意には、丁寧が返ってくる。そして不遜には、軽蔑が返ってくるだろう。
大人であるからには、
【小さな敬意】を払われるひとになりたいし、
【些細な丁寧】に気づけるひとになりたい。私が考える日常の一座建立って、
そんなこと。ピカピカに精米されたお米のために
土鍋を用意しながら、ふと、そう思った2013年丑の日。 -
理想の女性像はありますか?
あなたには、理想とする女性のイメージはありますか?私には、追い求める理想の女性像があります。
終戦前後の日本で活躍した、
人形作家で、アーティストで、編集長で、イラストレーターの中原淳一さん言葉の数々は、まだ10代だった私に、理想の女性を明確にイメージさせてくれました。終戦1年後の8月15日、
「 それいゆ 」という少女向雑誌を創刊した
中原淳一さんのことは、
ご存知の方も多いと思います。日本の女性がまだ、
破れた服を破れたまま着ていることに、
恥ずかしさを感じる余裕さえなかった時代。「 美しく自分らしく生きる 」
「 美しく暮らす 」ということを提唱し続け、
生涯をかけて活動したモラリスト。中原さんの言葉を読み返すたびに、
60年前の言葉とは思えない新鮮さに驚く。つい漫然と日々を送ることに反省し、
背筋がシャンと伸びる。中原淳一は
「美しくない」ことが許せない人だった。「美しい」とは、外見の美はもちろん、
やさしい心遣い、思いやり、弱い者や悩む人への愛、謙譲の美徳、
清潔な清々しさといった、
人間の在り方すべてであり、日常の暮らしを「美しく生きる」ことによって、
初めて、人生を楽しみ、
生きることを喜ぶことが出来る。という。「美しい暮らし」とは、家庭の生活を
きりまわしてゆくのに必要な、
理知的な技術によってつくられるもので、それを知っているか否かで、その人の一生が暗くもなり、
明るく豊かにもなる。中原淳一はそれを
「 女性の真心が形になって表せる技術 」
と、呼びました。人間のテーマは
時を超えても変わらないものだし、
娘時代に憧れた理想像は、
おとなになっても変わらないもの。中原淳一氏の 「美しく生きる言葉」は、
私にとって、女性として生きる思考の原点。 -
無意識の色気こそ本物
「女性の色気」というのは、本人が「色気」を意識した瞬間に
消えてしまうものだと私は思っている。最近なにかと話題の壇蜜さんも、
キレイだとは思うけど、
セクシーだとは思わない。本当にセクシーなのは、
コントロールの及ばない
「無意識の色気」なのではないか。2000年に公開された、
モニカ・ベルッチ主演
イタリア映画 『マレーナ』この作品は
名匠・ジュゼッペ・トルナトーレ監督による、
多感な少年の一途な恋の物語。
モニカ・ベルッチの奇跡的な美しさと、
悲しいほどのセクシーさが鮮烈な名作です。時代は1940年代、
第二次世界大戦中のシチリアが舞台で、
12才の少年・レナートが、
年上の美女『マレーナ』に恋をしながらも、
一歩踏み出す勇気も、声をかける資格もない、
そんなもどかしさと、せつなさが伝わる恋物語。老いも若きも男たちは皆、
本能的にマレーナに見とれ、女たちは皆、狂おしい嫉妬からくる、
軽蔑と非難の視線でマレーナを眺め続けます。本人すら懐柔できないほどの
「色気」というのは罪だ。でも、それを神から与えられた女性って、
ほんの一握りの選ばれし人。私がこれまでの人生で出会った
リアル・マレーナは
京都の伝説の芸妓・佳つ乃さん。当時20代前半で、
すでに売れっ子の有名人だった。19歳だった私は、幸運にも
金沢で行われたイベントでご一緒したのだ。昼間の着物姿も美しかったけれど、
主催者に連れて行ってもらった
夜の食事会の私服姿が忘れられない。髪を後ろにスッと束ね、
デコルテの開いたシンプルな黒いワンピース。陶器のような真っ白な肌と、細い首、
緩やかななで肩、豊かな胸元、
素顔に近い薄化粧なのに、
まるで季節外れの白い花が
月影に一輪そっと咲いたような、
清楚でありつつ妖艶な美しさだった。お姐さん達に心ない言葉で苛められていたが、
そこにいた人は皆、老若男女問わず、
完全に佳つ乃さんの虜になっていた。本物の色気というのは
自分ではコントロールできない、
無意識に発する特別なもの。模造の色気が幾重にも積まれた中、
燦然と輝くのは天然の色気。天然が磨かれて、本物の珠玉になる
19歳の私は本能的にそう感じた。
壇蜜さんは女性に人気があるという。
それは私たちと同じ、
無意識の色気に憧れ、妬み、悩み、
努力する「普通の女の、いじらしさ」
に対する共感からではないだろうか。 -
恥ずかしさの価値観
相手を理解するというのは、とても奥深い。結婚相手に望むこと。
その筆頭に挙げられるのが「価値観の共感」だろう。離婚理由に「価値観の違い」が多いことでも、
それは立証される。価値観というと、
おいしいと思うもの、
美しいと感じるもの、
大切にしたいと願うもの、
楽しいと興ずるもの、・・・といった、ポジティブな価値観を
重視する場合が多いけれど、現実の生活では、
恥ずかしいと思うこと、
みっともないと感じること、
生理的に嫌悪すること、・・・・といった、
ネガティブの価値観の一致のほうが、ずっと大切な場合が多い。なぜならば、楽しいことは
一人でしても楽しいし、美味しいものは、ほかの人とも
食べることができるでも、恥ずかしいと思うことを
身内である家族にされたり、生理的に嫌悪する行為を
正当化する発言を聞くのは、
かなりつらい。消防車のサイレン
「火事現場を見に行こう」と言われて、
好奇心を掻き立てられる人もいれば、
眉をひそめて嫌悪する人もいる。食事に行った先で、
一人前がかなり大盛りで食べきれない。食べ物を残すのは恥ずかしいから
一人前をシェアしよう。という人もいる。二人で一人前しか註文しないのは
お店の人に悪いから、
残す前提であっても、人数分注文しよう。
という人もいる。どちらも悪くない。
恥ずかしさの価値観が遠いだけ。これは結婚に限ってのことではない。
人間同士、お互いが歩み寄るためには
相手の「恥の価値観」に共感することが大切。到底、同感はできなくても、共感ならできるはず。
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一生かけて、自分の個性を創る
今の若者たちは
「生きている実感」が薄いようだ。
と、テレビで言っていました。「生きている実感」ってなんだろう?
仕事で進めてきた計画が達成したとき。
好きな人と結婚したとき。子供の成長を目の当たりにしたとき。いろんなシーンでひとは、
「生きててよかった! しあわせだ!」と思う。でも現実は、
「めでたし、めでたし」では終わらない。有難いと思い、感謝し、
ひたすら平穏に落ち着いていくうちに、
勇気は失う、気力は減る、忍耐は甘くなる、
体は弱くなる、ものが億劫になる、
と、喪失ばかりである。これは幸田露伴の娘で、随筆家の
幸田文の「しあわせぼけ」の一節。「しあわせぼけ」って、優しい響きだけど
実は残酷で、上手に付き合うのが難しい。私もこれまでに、この「しあわせぼけ」の中で、
「生きている実感」を何度か失った。しあわせなはずなのに、毎日焦っていて、
心が消耗する感じ。本物の「生きている実感」というのは、
「しあわせぼけ」から一歩踏み出し、
自分の無知、無力、無教養と向き合い、
もがいているときに
感じるものではないかと思う。そして、考える筋肉が鍛えられるなかで、
少しずつ創られていくのが、
唯一無二の、自分の個性なのだろう。人は一生かけて、自分の個性を創る。
「しあわせ」を感じる瞬間は素晴らしいけど、
「しあわせぼけ」している時間はもったいない。
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【家訓】 客の流儀
普段は反面教師のシンボルともいえる
実父だが、たまに、とても良いことを言う。子供のころから、よく言われていたのが
「お金を払うからといって、自分を客と思うな!」
この言葉には二つの意味がある。一つ目は、
食事をさせてもらう。
商品を買わせてもらう。
髪を切ってもらう。
美しいものを見せてもらう。自分にできないことを
相手にしてもらっている。
・・・ということを忘れるな。という意味。二つ目は、
今、この瞬間、自分は客であっても、
相手の人は、未来の自分や、家族、
親戚にとって大切なお客様かもしれない。そのことを肝に銘じて、
恥ずかしくない行動をしろ。
・・・という意味。子供の頃はよくわからなかったが、
この年になると、この言葉の意味が
ものすごく理解できる。とくに二つ目の意味は、
ご縁という、点と点が繋がって、
大きな輪になり始めた頃から、
痛切に感じるようになった。コーヒーショップの店員さんも、
駐車場の整備員さんも、
スーパーのレジ担当のひとも、
バスの運転手さんも、どこかで繋がっていて、
大切なお客様の、大事な人かもしれない。そう思うと、
大事にしなくてもいい人なんていないし、
気を遣わなくてもいい人なんていない。肩身を狭くして生きろということではない。
自分がお客様を迎える立場でも、
自分が迎えられる立場でも、
同じ自分でいることが大切。。それを自然体で出来る人こそが、
本物の接客のプロなのだと、私は思う。 -
人生の時間は、プレゼンテーションでできている
平凡でつまらない人生も、仕事も、この世にはない。
でも、プレゼンテーションがつまらなくて、イマイチに見える人は大勢いる。プレゼンテーションが輝く人ってどんなひとだろう。個人名を覚えずにはいられない
コンビニの店員さん、あなたの周りに何人いますか?サンクスのオオニシさん
彼女は、気働きが素晴らしい。パッと見はごく平凡なお顔立ちだか、
笑顔は野に咲くタンポポのようだ。雨の日は、床が滑らないように
拭き掃除をこまめにしてくれる。
しかも、そこにはやらされている悲壮感はなく
歌うように愉しげな印象。顔は見えなくとも、
微笑んでいることがわかる後ろ姿。気働きがあるということは、
セブンイレブンのキダさんは、
なんという清々しさだろうか。
動きに一切の無駄がないキダさん以外の店員さんのレジにつくと、
なぜかイライラしてしまうほど、
キダさんのテンポと動きは
踊るようにリズミカルで、気持ちがいい。ふっくらとした丸顔にメガネ。
愛嬌があるほうではないけれど、「いらっしゃいまーせー♪」という
独特のテンポの挨拶が聞こえると、
「あ、キダさんがいる!」と、
とてもホッとした気持ちになる。いちど、
「キダさんの動きは無駄がなくて素晴らしいですね」
と声をかけたら、その日のキダさんはギクシャクしてしまった。精神的なリズムを壊してしまって
申し訳なかった・笑
サークルKにも気になる女性が。一度しか会ったことがないので、
名前は覚えられなかったけれど、
コンビニではあまり見かけない、
優雅な接客だった。たとえて言うなら、
ホテルや、高級デパートの接客のような、
なめらかな所作と落ち着いた声のトーン。あまりに素敵だったので、
「接客業をなさっていたのですか?」と尋ねたら、
やわらかに微笑んで、「ハイ、以前は」
とおっしゃった。彼女がいるだけで、
客側の佇まいや口調も丁寧に変わる店員さんが発する雰囲気づくりはすごい影響力。
コンビニという、慣れあわない一定の距離感が
保たれている場所でも、ちゃんと個性が出せて、ひとに影響を与えられる。そんな職業人に出会うと、胸が熱くなる。
つくづく、人生を輝かせるのも、くすませるのも、自分のプレゼンテーション次第。