本物の愉しみはピークを過ぎて味わうもの

あるアマチュアゴルファーのお話を聴きました。
最盛期はハンディキャップ1までのぼりつめ、
60代の今も、ゴルフ合宿でタイに行き、
14日間で、17回ラウンドしているという。
その体力と気力に驚愕し、敬意を抱きつつも、
ピークを知るひとの目には、
昔のキレがなくなり、
出来ていたことが出来なくなっていくのは、
さぞ、つらかろう。
と、映っているらしい。
だが、果たして、そうだろうか。
もちろん、老いていく自覚そのものは、
寂しく、つらいけれど、
“突き抜ける爽快な歓び”という単純なものではなく、
もっと深いところで、木の根がじわりじわりと
水や養分を吸収するような複雑なしあわせが、
そこには宿っているのではないか。
過ぎさった追憶の日々が眩しく輝いてみえたり、
昔は気づかなかった、ひとの痛みに共感できたり、
今もなお、小さく進化するテクニックに喜んだり、
ゴルフを通じて深く感情を味わえるのは、
ピークを過ぎてからのほうが、
圧倒的に豊かであるに違いない。
それは、スポーツに限らず、
勉強も、恋愛も、読書も、芸事も、ファッションも、
身体が衰えて、
パフォーマンスが下がったぶん以上に、
若い頃には想像もしなかった新しい悦びが、
そこには用意されている。
但し、その本物の味わいは、
継続性をもって年輪を重ねたひとだけに贈られる
熟成ウイスキーの上澄みのようなものであり、
若い時間を無為に浪費している人は、
最も芳醇で、官能的な、
人生後半の愉しみがあることにさえ気づかない。