難解という名のギフト

とても解りやすい講義をしてくださる恩師が、

『 解りやすいと言って頂くことは多いけれど、
それは私にとっては誉め言葉ではない 』

と、仰っていたことを、ふと思い出した。

〝質の高い講義〟という前提がある場合、

『解りやすい』の対極は、
『解りにくい』ではなく、
『深みがある』なのだろう。

何度聴いても難解、
でも所々に確かな閃光(せんこう)が、
はるか遠くに漏れ見える講義が、

自分の成長とともに徐々に紐解かれ、
深い場所で開かれる苦悩の末の歓びは、
『解りやすさ』の中には生まれない。

その恩師は、

そう言いたかったのかもしれない。

学びとは、難解な宝の地図を、
自分なりに読み解こうと考え、

行動する過程であり、

得られる宝が英知なのであれば、

お手軽ナビゲーションの旅で、
宝は得ようがない。

『困難』『難解』の坩堝(るつぼ)で、
心が折れそうなときこそ、

手にした地図が、

質の高い深い学びのギフトを
与えてくれている時なのでしょうね。